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ポスト民藝を目指して

趣味とか趣味をたしなみます

習作

更新する話題がなくて何ヶ月も放置してた。。。

 

なんか、Twitterで思いついたことは書いちゃうし、少しまとまった話でもFacebookで済んでしまうのでなかなか運用が難しい・・・

 

そんなこんなで本業が大学生であるので、春休みに入ったので化学なんて忘れて、芸術の春といった具合です。

少し前にこの小説を読み終えました。

 

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

 

 

見ての通りアンリ・ルソーのお話。ぼく、ルソーって画家は初めて知ったんですけど。すぐに熱されてしまう人間なので、アール・ヌーヴォってすごいよってなって。本物みたいなあなんて。

そんで、春休みになって、今月11日に東京国立近代美術館に本命は瑛九の展示で行ったんです。そしたらいましたルソー。うわあ本物だよって興奮して、この本読んでたんで贔屓目っていうのもあったんですけど、感動しちゃいましたね。

 

最近そんなこんなで気になれば美術館行ったりなんだり、ぼくはこれが好きなんだなあって。化学も音楽もみんな含めて。

 

テストを訳にDJもDTMもサボり気味だったんで、なんとかこういう気持ちを音楽に落とし込めないかなあとか考えたり踏んだり蹴ったりヘッドホンが片耳聞こえなくなったり。

 

で、ここまでは前置きと余談でして、ここ数日、二本ほど立て続けにイベントに遊びに行ってたんです。久々に大音量でテクノ聞いて、いいなあと思う一方で、ぼくのこの今の感じにはテクノのキックが重過ぎるという発見もあって。嫌いになったとかそういう意味ではなくて、単純な感想として。

音楽の本質的なラインと文脈の上で重い“ミニマル”テクノのビートには何かあるはずだと思うんです。近代の音楽の本質において、踊るということは比較的分割できないものに感じる部分があって、その行為はビートに身を任せることであるように考えます。重いビートというのはその部分の明確な掲示ではないかと。EDMやダブステップのような音楽もこの部分は明確。それが何より、踊りやすい。

 

逆説的に分解して考えるなら、重いビートは「はい!!ここ!!ここ踊りますよ!!」っていう大々的な告知であって必要不可欠かと言われれば、どうなんだろうという。体を揺らしたり、足を動かしたりビートにあわせることは、音楽という空間中にグリッドを見出してるから出来るのであると考えられます。テクノでもビートが消えても踊れるのはその前にあったグリッドの間隔を覚えているからです。

 

ズバっと言ってしまえば、重いビートやうるさい音って聞き手の世界を区切るグリッドにもなってしまう気がするんです。それを悪いとは思わないし、そうする必要があるんですけど。何より、カッコイイですもんね重いビートの曲って。

 

ただ、ぼくの最近の個人的な趣味が、ノって楽しいというより、聞いてて「ふぅ...」って感じのが好きで。グツグツしたワッという驚きの逆で、最近のSashaとかいい感じなんですけど。この感覚ってどこかで覚えてるぞって思ったら、安堵感の美しさって民藝の用の美みたいだなあとか思ってみたり、まだまだ実験は必要なんですけど。ふと思い浮かんだ感じではシュルレアリスムも近いんですよね。

 

そんなこんなで、探してもこれだってものは見つけにくいので、自分でいろいろ実験しながらやってく必要があるんだなあと思っていたりもします。

 

まあ、そんなこと関係なく、こんな感じのやりたい!っていう興味で作ったまま公開もせずに眠っていた曲を二曲ほど、公開にしてみました。記事タイトル通り、習作です。

soundcloud.com

こっちはトランスです

soundcloud.com

こっちはドラムンです

 

色々思ったこと書いてみたけど、こういう形で実験結果をアップして跳ね返りがもらえたら面白いかなあというのが括りです。

 

オタクよろしく長語りしてしまいました。。。